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知られざるアートの効用―
慶應義塾大学文学部教授 川畑秀明

九州大学大学院博士課程修了。博士(人間環境学)。ロンドン大学認知神経学研究所研究員、鹿児島大学教育学部准教授などを経て、現在、慶應義塾大学文学部教授。美や芸術、対人魅力など、人が美しさを感じる心や脳の働きに関する基礎研究とアートの効用や抗加齢医学などへの応用展開について研究を行っている。著書に「脳は美をどう感じるか:アートの脳科学」(ちくま新書)、「美感:感と知の統合」(勁草書房 三浦佳世・横澤一彦と共著)など。


私の専門は、美しさの感じ方やアートの鑑賞に関わる心と脳の働きを明らかにする「感性心理学」という分野です。これまで私たちの研究では、アートを理解し、美しく感じ、他者の顔の身体に魅力を感じる心や脳の働きを心理学や脳科学の基礎研究として検討してきました。

美やアートに関わる心や脳の研究は21世紀前後から急速に研究が進んできています。その基礎的な心と脳の働きについては別の機会に述べたいと思いますが、心も脳も複雑なその仕組みが関係していることが分かっています[1-3]。重要なのは、アートにおける美は(現代アートでは美しさというよりも、面白さや興味深さと言い換えても良いかもしれません)人の心や脳へのご褒美(報酬)の一種なのだということです。

アートは“無用”なものではなく、もはや私たちの“生活の一部”となっています。美術館に行かずとも家庭やオフィス、インターネットなど、あらゆる場面にアートに触れる機会はあります。そして近年の研究では、私たちの想像以上にアートが人に対して与える効果が様々なかたちで明らかになってきました。本稿では、アートの効用のいくつかの側面について紹介します。

アートの心身への効用

アートを用いた心に対する効用はこれまでも様々に検討されてきました。アートは高齢者をはじめとして心身の健康を高め、社会参加を促すのに有力な方法であることが示されつつあります。意外にもアートが示す心身への効用は膨大な量の報告があります。

ただ、その多くが状態の質的な記述に関するものが多く、どの程度量的に効果があるのかについては十分把握できていないのが現状です。また、その背後にあるメカニズムについても分からないことだらけです。

近年、アートの鑑賞が血圧を下げることや不安や抑うつの兆候を改善させ、他者との繋がりを促進し、幸福感や生活満足度などポジティブな影響が量的に示されつつあります。

例えば、美術館でアート作品を鑑賞することで、鑑賞前と比べ血圧や心拍を低下させることが分かっています。ただし、作品のタイプによってその効果は異なります。血圧を下げる効果については、抽象画などの現代アートよりも、肖像画や風景画などの具象画の方が高いことが分かっています[4]。

面白いことに、作品の好き嫌いと血圧の変化には関係は見出されていません。むしろ作品を鑑賞することが重要であり、血圧や心拍を低下させることでリラックスし、ストレスの改善につながると考えられています。実際、美術館への訪問によってストレスの感じ方が低減し,ストレスと関連するホルモンの1つであるコルチゾールが(特に男性において)減るという研究報告もあります[5]。

さらに、美術作品を美しいと感じることで痛みが軽減され、痛みに関連した脳波の大きさ(振幅)が小さくなることも報告されています[6]。美しさを感じることで痛みへ向かう注意が逸れるのか、あるいは痛みそのものに関連する脳の回路や処理に生理学的な影響があるのか、そのメカニズムはよく分かっていません。

しかし、痛みとストレスに関する脳のメカニズムには共通性があることが分かっています[7]。アート作品の鑑賞によってストレスが低下し、痛みにも作用するのかもしれません。

アートは医療に有効か?

カナダのケベック州モントリオールでは、痛みや高血圧・高コレステロール症・ストレスを抱えた患者が美術館に行ってアート作品を鑑賞することを医師が治療の一環として処方できる試みが2018年11月から始まりました[8]。アートは薬の代わりにはならなくとも、心のケアをはじめとして医学的な治療の可能性があることを示しています。

高齢者や認知症患者を対象としたアート作品の鑑賞や作品制作を用いた研究は、膨大な数に及びます。例えば、特定の対象に持続的に注意を向け続けるのが困難な認知症の患者に対して注意機能の改善を示した報告や[9]、記憶や言葉の流暢さの向上に影響を与えることを示した報告[10]など、アートが認知機能の改善や維持に与える影響が近年数多く報告されてきています。

ただし、特に鑑賞を用いた高齢者や認知症への介入研究では、どの程度認知能力の向上に貢献しているか量的レベルでの把握が難しいことが多々あります。それに、定量的なデータが得られても、介入の前後で確実な変化が得られているわけではありません。芸術鑑賞の介入プログラムを設計したり調査したりするのは非常に難しい作業です。

一方で、近年では記憶などの認知機能やうつ症状や不安の低減に関する定量的評価の結果についても研究が見うけられつつあります[11]。また海外では、オーストラリア国立美術館[12]、ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館[13]、テート美術館[14]など多くの美術館で高齢者や認知症、精神疾患の患者を対象としたアート作品の鑑賞プログラムの開発が進められています。

「人生100年時代」といわれる長寿社会の中で重要なのは、どのように健康寿命を延ばすか、そして膨大な医療費をどう減らすかということです。アート作品の鑑賞が心身の健康におよぼす有効性の量的な理解は始まったばかりです。その基礎研究の多くは、病気の人に対してではなく、健康な人に対して得られたデータを報告しています。今後は、これらの知見の再現性の確認と、慢性痛など病気の人々に対してどのような効果があるのかの報告、さらにそのメカニズムの解明に期待がかかります。

アートは教育に有効か?

アートが認知機能の改善や維持に役立つのであれば、認知症や高齢者に対するケアだけでなく、より一般的な能力開発や学力向上にもつながる可能性もあります。そこで注目されているのが「対話型美術鑑賞」です。

例えば、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開発され、世界中に広まったVisual Thinking Strategies (VTS)という対話型美術鑑賞の手法・プログラムがあります[15]。VTSでは、「この作品のなかで何が起こっているのでしょう?」「作品のどこからそう思ったのですか?」「他にもっと発見はありますか?」という3つの主質問を軸にファシリテーターと鑑賞者とによる対話(作品と鑑賞者との対話)がなされます。

VTSによる継続的な鑑賞プログラムによって小学校の子どもたちの学力、思考力等の向上につながることが報告されています[16]。また対話型鑑賞が(VTSに限定されるものではありません)医師教育や看護教育へと用いられ、観察力・共感力・人間力・柔軟な思考力などを高めるための教育実践的手法として用いられ始めています[17]。

これらのアートの教育的効果に関する研究は、近年相当な数が報告されてきていますが、やはり効果の量的な検証は十分とは言えません。また欧米での研究が多くを占め、日本での研究はほとんどないのが現状です(実践例はいくつも報告されています)。

ただ、対話型鑑賞を含め、アートが何らかの教育的効果があることは分かりますので、今後は、何に対して効果があるのか、その質と量の両方を検証していく必要があるでしょう。おそらく、クリエイティビティや思考力・判断力といったビジネス上の能力開発にも有効なはずです。

アートはビジネスに有効か?

次に、アートがもつビジネス上の効用について考えてみたいと思います。小売りのマーケティングでは、アート作品を商品を引き立たせたり、店の雰囲気を構成したりする上で重要な要素として用いてきました。そのことは研究上でも効果があることが示されています。例えば、店舗におけるアート作品の有無が小売店における消費者の購買に与える影響などについても明らかになっています[18]。

美術館のグッズのように商品にアート作品があると、それが写真であるときに比べて商品の良さの評価が高くなり、それが高級感の認知を媒介としていることを明らかにした研究があります[19]。オフィスや病院など至るところにアートは展示されうるのですが、そのような空間の良さにも影響する可能性はありそうです。

株式会社スペースマーケットらによる「アート作品設置によりシェアスペース価値が向上するか」について実証実験[20]は、空間の目的にあうアート作品を展示することでコンバージョン率や閲覧回数が向上していることを報告しています。

©Momi Abe

プレスリリースでもコメントしましたが、アート作品を活用することで、シェアスペースに対する良さの認知を引き起こし、コンバージョンや満足度を向上させる可能性を示しているものと理解できます。先に述べた研究例をもとに解釈すると、アートの存在がスペースの高級感やその良さに影響したということでしょう。

ただし、ワークスペースには、期待される望まれる成果がその使い方や目的によって異なります。商談なのか、クリエイティブなアイデアの創発なのか、労働の効率性なのか。アート作品の有無だけでなく、どのようなアート作品によってどのような成果が生まれるのかを検証することも今後重要になるでしょう。

また、消費者(ユーザー)には異なった属性があり、それによって好まれるアートの作品のタイプがあることも分かっています。消費に影響を与える作品のタイプがあること、さらには好まれる労働環境も様々であることも分かりつつあります。様々な観点からの研究や検証のアイデアは尽きません。

今回、医療や教育、ビジネスなどにおけるアートの効用について述べてきましたが、例示した研究はほんの一部に過ぎません。アートの効用は、ただアート作品があればいい、鑑賞すればいいというだけでもたらされることはありません。様々な因果関係とともに、実証的に深く捉えていきたいと思います。

参考文献

[1] 川畑秀明 2012 『脳は美をどう感じるか:アートの脳科学』 ちくま新書
[2] 三浦佳世・川畑秀明・横澤一彦 2018 『美感:感と知の統合(シリーズ統合的認知)』 勁草書房
[3] 石津智大(著)・渡辺茂(コーディネーター) 2019 『神経美学:美と芸術の脳科学』 共立出版
[4] Mastandrea, S., et al. 2019 Visits to figurative art museums may lower blood pressure and stress. Arts & health, 11, 123-132.
[5] Clow, A. & Fredhoi, C. 2006 Normalisation of salivary cortisol levels and self-report stress by a brief lunchtime visit to an art gallery by London City workers. Journal of Holistic Healthcare 3, 29–32.
[6] de Tommaso, M., et al. 2008 Aesthetic value of paintings affects pain thresholds. Consciousness and Cognition, 17, 1152–1162.
[7] 仙波恵美子 2010 ストレスにより痛みが増強する脳メカニズム 日本緩和医療薬学雑誌, 3, 73-84.
[8] https://observer.com/2018/11/doctors-prescribe-art-montreal-heart-condition-asthma-cancer/
[9] Kinney, J. M., & Rentz, C. A. 2005 Observed well-being among individuals with dementia: Memories in the Making©, an art program, versus other structured activity. American Journal of Alzheimer’s Disease & Other Dementias®, 20, 220-227.
[10] Eekelaar, C., et al. 2012 Art galleries, episodic memory and verbal fluency in dementia: an exploratory study. Psychology of Aesthetics, Creativity, and the Arts, 6, 262–272.
[11] Beard, R. L. 2012 Art therapies and dementia care: A systematic review. Dementia, 11, 633-656.
[12] D’Cunha, N., et al. 2019 Psychophysiological Responses in People Living with Dementia after an Art Gallery Intervention: An Exploratory Study. Journal of Alzheimer’s Disease, 72, 549-562.
[13] Kenning, G. 2016 Arts engagement for people with dementia: Independent evaluation of the art access program, Art Gallery of New South Wales. Sydney, NSW: University of Technology Sydney and Art Gallery New South Wales.
[14] Shaer, D., et al. 2008 The role of art therapy in a pilot for art-based information prescriptions at Tate Britain. International Journal of Art Therapy, 13, 25-33.
[15] Yenawine, P. 2013 Visual Thinking Strategies: Using Art to Deepen Learning Across School Disciplines. Cambridge, MA: Harvard Education Press. フィリップ・ヤノウィン 京都造形芸術大学アートコミュニケーション研究センター (訳) 2015『学力をのばす美術鑑賞 ヴィジュアル・シンキング・ストラテジーズ:どこからそう思う?』淡交社
[16] Housen, A. C. 2002 Aesthetic thought, critical thinking and transfer. Arts and Learning Research, 18, 99-131.
[17] Zazulak, J. et al. 2017 The art of medicine: arts-based training in observation and mindfulness for fostering the empathic response in medical residents. Medical humanities, 43, 192-198.
[18] Naletelich, K., & Paswan, A. K. 2018 Art infusion in retailing: The effect of art genres. Journal of Business Research, 85, 514-522.[19] Hagtvedt, H., & Patrick, V. M. 2008 Art infusion: The influence of visual art on the perception and evaluation of consumer products. Journal of Marketing Research, 45, 379-389.[20] https://arthours.jp/news/release1127/

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